カラマズーの歴史
紀元前から、この辺りにはネイティブ・アメリカンによるホープウェル文化が栄えていた。今のダウンタウンにあるブロンソン・パークには、ホープウェル文化の特徴のひとつでもある、死者を葬った小さな塚が残っている。ホープウェル文化は8世紀頃に衰退し、別の部族に取って代わられていった。ヨーロッパ人が入植し始めた頃には、この地にはポタワトミ族が住み着いていた。
記録に残っている中では、この地に足を踏み入れた初めのヨーロッパ人はロベール=カブリエ・ド・ラ・サールであるとされている。ラ・サールは1680年3月の終わり頃にこの地を訪れた。初期のヨーロッパ人定住者は主に18世紀終盤から19世紀初頭にかけてこの地に入植した毛皮取引商であった。毛皮取引商たちの越冬や、1820年頃の取引所についての記録も残っている。
米英戦争中には、イギリス軍によってこの地に鍛冶場と牢獄が作られた。1821年にアメリカ合衆国連邦政府とネイティブ・アメリカンとの間に締結されたシカゴ条約によって、グランド川の南側はすべてアメリカ合衆国の領土となった。カラマズー川のほとりのこの地には、シカゴ条約によってネイティブ・アメリカンの村となる3マイル四方の土地が確保された。その6年後、1827年に締結されたセントジェセフ条約により、この村もミシガン準州に編入された。
1829年、コネチカット州出身のタイタス・ブロンソンは、白人入植者としては初めて現在のカラマズー市域内に家を建てた。翌々年の1831年には、ブロンソンは区画を整理し、造り上げた村に自らの名を冠した。ブロンソンはよく「エキセントリックで議論好きな人物」と言われ、後に町から出て行った。1836年、ブロンソンが桜の木を盗んで罰金刑に課せられたことなどもあって、ブロンソン村はカラマズーに改名された。しかしブロンソンの名は、現代のカラマズーにおいてもブロンソン・パークをはじめ、市内の各所にある。カラマズーは1838年に正式な村となり、1883年に市に昇格した。
市に昇格してからもカラマズーは成長を続け、1970年には人口85,555人を数えた。しかし1970年代に入ると、その成長にもかげりが見え始めた。この頃になると、カラマズー公立学区でも差別撤廃に向けたバス通学が行われ、ダウンタウンの学校に通っていた黒人の生徒を白人の多い郊外の学校へ、また白人の生徒をダウンタウンの学校へそれぞれスクールバスで通わせるという取り組みがなされた。しかしこの取り組みは万人に受け入れられたものではなく、カラマズー公立学区を避け、隣接する学区に引っ越す白人の家庭が出てくる世になった。この結果、カラマズーの市域人口はその後20年間で約1割減少した。それでも、デトロイトなどよりホワイト・フライトの激しかった州内の他の大規模な学区に比べると、上手くいった部類に入るものであった。このバス通学制は1990年代後半まで続いた。
作家永井荷風は1904~1905までここに居を構えていた。